サイレンの温度

散歩の途中、遠くでサイレンが鳴る。 「ピーポー、きた!」 弾んだ声で指をさす息子。視線の先には、赤いランプを光らせて走る救急車。

大人の私にとって、その音は日常の裂け目のようなものだ。誰かが怪我をしたのか、急病か。その切実さを知っているから、本来なら背筋が伸びるような、静かな緊張感を伴う音である。

けれど、息子の前では「そうだね、救急車だね」と、その高揚感に歩調を合わせる。パトカーが通る時も同じだ。「ウーウー」という唸りは、不穏な事態の合図のはずなのに、ここでは「かっこいい車」の登場曲にすり替わる。記号としての意味と、目の前の無邪気な喜び。 そのズレのなかで、私の感情はいつも少しだけ、迷子になる。

先日、巡回中のパトカーを見つけた。サイレンは鳴っていない。 息子が熱心に指をさすと、運転席の警察官がこちらを見て、合図を送るように一瞬だけ赤色灯をまたたかせ、 小さく敬礼してくれた。息子の目が、これ以上ないほど輝く。

働く車は、子どもにとってのヒーローだ。 けれど、彼らが本当に「仕事」をしなければならない瞬間は、誰かにとっての非常事態でもある。この車たちが動かずにじっとしている一日こそが、一番平和な日なのだ。

そんな理屈を、今すぐ教えようとは思わない。 いつか彼が、サイレンの音を「少し寂しい音」として聴く日が来るまで。私は隣で、「パトカーだね」と頷いていようと思う。