
あの日、私は「予定」という言葉の無力さを知った。
明け方、隣でモゾモゾと動く気配に目が覚める。妻の様子が、明らかにおかしい。
「……陣痛かも」
その一言で、脳は一気に覚醒した。――はずなのに、体は布団の中で一瞬固まっていた。
あさって、計画無痛分娩で出産する予定だった。万全の体制で臨むはずのスケジュール。段取りも、心構えも、きちんと整えていたつもりだった。だが赤ん坊は、こちらの都合を聞いてはくれない。小さなノックひとつで、予定表はあっけなく書き換えられた。
急いで荷物を積み込み、病院へ向かう。そのまま入院が決まる。だが明け方という時間のせいで、麻酔科医がまだ不在だという。
「無痛」のはずが、妻は陣痛の波を真正面から受け止めることになった。
私は一度、長男を実家に預けるため病院を出た。苦しそうな妻を残して背を向けるのは、思っていたよりも足が重い。何度も振り返りそうになりながら、どうにか前へ進んだ。
戻ると、廊下には同じように落ち着かない父親たちが立っていた。皆スマホを握りしめているが、きっと画面の内容は頭に入っていない。言葉は交わさない。それでも、妙な連帯感が漂っていた。
やがて麻酔科医が到着し、処置が行われる。しばらくして妻の表情が変わった。あれほど苦しんでいた顔に、わずかな余裕が戻る。
文明とはすごいものだ、と素直に思う。同時に、張り詰めていた自分の肩もゆるんでいることに気づく。正直なところ、妻が痛がっているあいだ、私のほうが落ち着かなかったのかもしれない。
隣の病室からも泣き声が聞こえなくなる。やがて廊下の向こうから、新しい赤ん坊の声が響いた。
さきほどまで「どうか静かであってくれ」と願っていたのに、今はその声を探している。勝手なものだと思う。
予定は、とうに崩れた。
それでも、この子が生まれてくるという事実だけは変わらない。
私は深呼吸をひとつして、静かにその時を待った。

