
人はなぜ山に登るのか。
「そこに山があるから」
この言葉は、たぶん正しい。
息子は今日も登っている。
山ではないけれど。
椅子の背もたれから、テーブルの縁へ。
小さな手がどこを掴むのか、
見ているこちらの肝が冷える。
「だめ」と言わなければならない。
危ないことは止める。
親として、そこは線を引く場所だ。
けれど息子は、
その線を何も知らない顔で越えていく。
目の高さが合うころには、
もうこちらを見て、ニコッと笑っている。
その笑顔が、
理屈を全部、追い越してくる。
「降りなさい」と言う前に、
胸のあたりが、ふっとゆるんだ。
その一瞬を見逃したくなくて、
なぜか、違う言葉が口をついて出た。
「すごいね」
言ったあと、
自分の声が少し照れくさく響く。
だめの代わりに出てしまったその言葉を、
息子はうれしそうに受け取って、
もう一度、
さらに高いところを見上げた。


